ミューズは願いを叶えない


10月18日 某時間
某マンションベランダ

「くっそー。寒い〜。」
 地球は確実に温暖化に向かっているらしい。それは確かな事実であろうけれど、今王泥喜の置かれた状況はただ寒かった。
 マンションの5階。そして、ベランダ。北風がピープー吹いているのに、王泥喜の装備ときたら普段の格好に、みぬきに持たされた安価な毛布。木の剣や木綿の服の駆け出し勇者とそう変わったものではないだろう。
 勿論、王泥喜の趣味を満足させる為にこんな事をしている訳ではない。強いて言うなら生活の為。うっかりみぬきが受けてしまった依頼の為だった。

「何も聞こえないぞ、畜生。」

 毛布にくるまり歯噛みしながら、王泥喜は吠えたる。
 エアコンの室外機以外は何もないベランダ。固く施錠された窓の向こうは依頼主である子供部屋だった。依頼主が言うには、王泥喜が座っている場所から夜毎にひそひそと話し声が聞こえるらしい。最初は気のせいかと思っていたものの、隣室は空き家で人がいるはずもなく、親に告げても相手にされず、思い余って成歩堂なんでも事務所に来たとの事。
 調べるにしたって両親の許可は必要で、訪れた家にいた両親はそんなに気にしていたのかと、王泥喜の調査を許可してくれたのだ。そうして、可愛い子供の為に、当分はホテルに泊まりますと言って出ていった家族と引き換えに、王泥喜はベランダで留守番をする羽目になったのだ。
「……眠い…寒い…お腹空いた…。」
 一番楽に死ねると言われている条件を口にする頃には、まん丸く寒々とした月が綺麗に輝いていた。ホットケーキが食いたいなぁと思いつつ、時間を見る為に取りだした携帯には、恐ろしい数の着信と留守録が記されていた。
 居並ぶ名前は全て同じ『牙琉検事』
「あ…やべ…。」
 響也と飲む約束をしていたのを、これまたあっさりと忘れていた。端から気乗りがしなかったのだから、自分ばかりを責められても困ると言いつつも、完璧に無視をしたのは自分に非があるのは間違いない。本気で嫌なら最初から断ればいいのだから。
 おまけに相手は、愚痴を言わせたら天井知らずの男だ。速効で謝るに越した事はないと、既に速効などという時間では無いにも係わらず、王泥喜は携帯を押した。
 数回のコールで携帯は繋がった。
「あ、牙琉検事。すみません、俺です。連絡が遅くなってしまって…あのですね、急に仕事が入って…「……聞いたよ」」

 しかし、応えは自分の上から降ってきた。
 視線を上げれば片手にコンビニの袋を下げ、彼が普段愛用しているジャケットと同じ色の厚手の上着を羽織った響也が、携帯を片手に王泥喜を見下ろしている。

「約束の場所には来ない。連絡しても繋がらない。家にもいない。わざわざ、事務所まで行って、お嬢さんに此処を教えて貰った。」

 憤怒の表情を王泥喜に向けたまま、響也はコンビニ袋を突き出す。
 そんな不躾な動作だったにも係わらず、背景に月を背負った金色の髪は、一瞬息を飲むほどに綺麗なものだった。なので、惚けた表情のまま王泥喜はその男を見上げてしまった。
 しかし、動かない王泥喜を待っていられないとばかりに、響也は袋を王泥喜の手に押し付ける。白い湯気がたっている商品は、かじかんだ王泥喜に手には熱いほどだった。
「あ、ありがとうございます。」
「…お嬢さんに、何も持たずに張り込みに行ったって聞いたから。こんな寒い場所‥少しは準備でもしたらどうなんだい?」
 腕組をして呆れた風な響也に、王泥喜もむっと顔を顰めた。王泥喜だって、こんな男に指摘されるまでもなく出来るならそうしていた。ギリギリまで書類作成に追われ、それどころではなかったのだ。
 他人の心情に配慮が乏しいのは、如何にもこの男らしくて、王泥喜の表情はむっとしたものに変わる。見惚れてしまったなど、一生の不覚に違いない。
 
「わざわざ、こんなところまで…アナタも暇人なんですねぇ。」

 嫌味っぽく告げれば、響也はあからさまに不機な表情をした。でもその顔立ちはやっぱり整っている。なんてこの世は不公平なのだろうと王泥喜は思う。
「あのね、おデコくん。」
 ひくりと長い睫毛が揺れる。瞳をきつく細めて響也は王泥喜を睨む。
「そもそも、今夜の約束を反故にしたのは君の方だろう? 暇にさせたのは君だ。忙しいスケジュールを縫って予定を開けた僕を、暇呼ばわりするのが失礼じゃないか。」
 
 …勝手に約束を取り付けたのは、アンタだろうが。

 しかし、王泥喜は腹の中だけで文句は留めた。これ以上の口論は面倒くさかったのが最大の理由で、この張り込みに際して、こうして差し入れをくれた相手に、多少なりとも敬意を拝したのも理由のひとつだ。
 寒空の下、風の吹き抜けるこんなベランダの隅っこに、ひとりぼっちで毛布にくるまって朝を迎える事を思えば、ジャラジャラした検事でもいないよりはマシに思える。
「はいはい、わかりました。そんな所に突っ立ってられると、不審者に間違われかねないんで、通報される前に此処へ来て座って下さい。」
 そう言って、隣の床をぺちぺちと王泥喜は叩く。
むうっとした顔はそのままで、響也はその長い脚を折り曲げて王泥喜の横に座る。
「不審者って…僕は一応検事だぞ。」
「はい、はい、知ってますよ。よく存じ上げております。」
「本当に失礼だな、君は。」
 完全に機嫌を損ねたらしく、ぷいとそっぽを向く。やれやれと、送った王泥喜の視線の先に、頬づえをつく響也の横顔が見える。
 こんな近くで見たのは初めてかもしれない。王泥喜はそう思う。
薄明かりでも、金の髪は光沢を放っていて一本々が艶めいて見える。すんなりと通った鼻筋に、細い顎のライン。睫毛は吃驚するほど長くて、別に化粧とかしていないんだろうに、唇も綺麗に色づいている。
 外見がこれの上に、少々性格には難点があるものの、天才と称される検事殿だ。非を唱えるのに、何処か気後れしてしまう。

…みぬきちゃんがキャーキャー言うはずだよな。

 男の俺が見ても、こんなに綺麗なんだから…。
 心の中で綴った感想に、王泥喜はうっと詰まった。何言ってだよ、俺。相手は、男だぞ。落ち着け…王泥喜法介。
 宥めてみても、一度高く鳴り始めた心臓は、全身に広がっていくような気がする。ドキドキというよりも、ズキズキと痛む感じで、もう何だか理解出来ない。

「…あの…アンタいつまで…。」

 でも、このまま朝までふたりっきりで過ごすのは、酷く拙い気がした。何か、馬鹿な話でも始めないと、自分の行動に自信がもてなくなりそうで、王泥喜は声を発して、そして固まる。

 ひそひそ…と声が聞こえた。
それは、依頼人の告げたように啜り泣く声にも似ていて、幽霊の類はさっぱりと信じていなかった王泥喜も流石に息を飲む。
 誰もいないはずの、場所から聞こえてくるのだから尋常な人間のはずはない。いや、不法侵入者かもしれない。でも、不法に侵入してなんで泣いてるんだ。出られなくなったのか、そんな莫迦な。
 ぐるぐると回る思考には取り留めが無かったが、ふいに耳に入った言葉に今度は心臓が止まった。

 ほうすけ

か細い声はそう呟いた。

 まままま、まさか、自分の名前だなんて?そ、そそ、そんなはず。幽霊の類に知り合いは…心当たりがない訳じゃないけど、こんな場所にいてもらっても、ちょっと困るかもしれない…。
 堂々巡りの思考に囚われそうになった王泥喜を引き戻したのは、二の腕に立てられた爪だった。
「お、王泥喜法介」
 そうしてさっきの名前は、自分の腕にしがみついている検事の声なのだと気がついた。


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